夫婦別姓に対する考え方: 当人たちの好きにさせろ、他人の意見は法改正の参考にすべきでない

家族の法制に関する世論調査 が話題になっているので、私の考えをまとめてみました。

私の基本的意見: 当人たちの好きにさせろ

この問題に対する私の意見は至極単純で、「同姓がいいか別姓がいいのか当人たちの好きにさせればよい」、「行政が同姓・別姓のいずれかを強制するのはおかしい」という2点に尽きます。なお、議論の本質とは関係ありませんが、以下では「同姓」と書かずに「同苗字」と書きます。私の頭の中では「姓」とは本姓なのであって、現代人の「名字」は「姓」とは違うと思っているからです。(例: 渡辺さんの本姓は「源」)

夫婦別姓に関する調査はどのように利用されるべきか: 法改正の根拠にするのはおかしい

この調査結果をみて判ることは、実際に結婚しようとしている人は別苗字を希望している人が多いのに対し、その親世代やそれより上の世代において、別苗字に反対する人が多い、ということです。私の基本意見は「当人たちの好きに任せろ」なので、この結果は同苗字を強制する法律を維持する根拠にはなり得ません。むしろ1% でも別苗字にしたい人がいるなら、行政はそれを受け入れるべきだと考えます。

この調査結果は、法改正の根拠ではなく、「別姓は親や祖父母にうけが悪いらしいから、別姓にするなら予め理論武装しておかないとだめだな!」といった、当人が身構えるのに使えると思います。場合によっては駆け落ちが必要になるかもしれないのだから、準備は必要でしょう。

では何を根拠に法改正すべきかどうかの判断をするのか?: 行政コストが納得できるものか

現行の戸籍制度は明らかに家族が同姓であることを前提としているので、もしここで夫婦別姓を導入すれば、各自治体の戸籍管理システムは全部刷新する必要があると思われます(おそらく世帯住民票は作り直す必要ないでしょう)。法改正を躊躇するとすれば、このシステム刷新の費用でしょう。何兆円もかかります、と言われたら、納税者としては、どのような方法で法改正まで持って行くのかを慎重に検討する必要があると思います。

よって、もし調査するとしたら、「60代の男は反対 n %」とかいう調査をするのではなく、実際導入した場合のイニシャルコストとランニングコストがいくらになるかを調査すべきだと考えます。私としては、もちろん「びっくりするほど高くないから改正してもいいよね」という結論が出ることを期待しています。

同姓だと家族の一体感が高まるのか?

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと申しますが、歴史を紐解けば反例など簡単に出てきて拍子抜けです。別苗字の仲良し兄弟と、同苗字の険悪兄弟を列挙してみましょう。まず別苗字の仲良し兄弟から。

正確に言うと新田兄弟は「別姓」ではなくて「別苗字」(本姓は「源」)、毛利三兄弟は「別苗字」かつ「別姓」(毛利氏は本姓「大江」、吉川氏は本姓「藤原」、小早川氏は本姓「平」)ですが、文字表記として「名字」部分が違う、という意味では現代で言うところの「別姓」と同義だと言っても差し支えないと思います。

続いて同苗字の険悪兄弟。

これで「同姓だと家族の一体感がある!」と言えるのでしょうか。私には、家族の一体感は苗字の同一性ではなく思考の同一性が寄与しているとしか思えません。

自己矛盾: そんなに一体感がある家族の子供なら、別姓が許容されても同姓を選択するのでは?

いわゆる夫婦別姓が法律で認められたとしたら、「夫婦は同じ苗字を名乗るべきだ!家族の一体感がなくなる!」と言っている人の子供はどちらを選ぶのでしょうか? 親の意向を尊重して、勝手に同苗字を選んでくれるのでは? だったら、赤の他人に同苗字を強制するのはおかしな話ではないでしょうか。

まとめ

家族が同一の苗字を名乗るべきだという合理的根拠はないので、コストを勘案しつつ法改正する方向で検討すべきだと思います。

付記: 中国は男女平等だから夫婦別姓なのか?

むしろ逆に、中国では女の人を人間扱いしていない(家の構成員ではない)から、たまたま別姓になっていた伝統が現代まで残っているだけだと思います。「三国志 きらめく群像」(高島2000)「水滸伝の世界」(高島2001) を読むと、モノ扱いされている女の人が多くてびっくりすること間違いなしです。

中途レビュー: The Future of Power

読んでいる途中ですが、Nye (2012): The Future of Power のレビューです。

要約

Power とは、第三者をして、その人が当初考えていたのとは異なる行動をとらしむるための脅しもしくは報酬のことであって、軍事力など tangible かつ push する力が hard power で、intangible で pull するのが soft power で、これらをじょうずに組み合わせるのが smart power である。かつて行動の主体が国家だけであった時代とは異なり、技術の進歩(情報革命を含む)によって破壊的手段が国家以外の組織にまで拡散してしまった現代では、行動を直接的に抑えるだけでは敵対組織の活動を掣肘するのは困難であり、人々の考えそのものを誘導して、そのような組織が自然と生きていけなくなるような環境を実現することが重要である。そのためには国同士の連携や(マス)コミュニケーション、国際機関や経済的依存関係の利用(制裁・援助・自国通貨)を活用しなければならない(制裁は成功率は低いけど軍事力を行使するよりは効果的)。軍事力というのは、直接的な力も発揮するが、soft power を得ることにも使える("show the flag" 効果;例えば米軍の日本駐留)ことを考えると、使いどころが変わっただけで重要度には変わりがない。

感想

この本は、日本において Kindle サービスが開始されたときに、一部のネット世界では有名な @may_roma さんが最初の一冊としてオススメしていた本だったので、購入して読んでみた。読み始めた最初の感想は「単語が難しい!」。実のところは、難しいのではなくて、ふだん自分が触れている単語(IT系の技術用語)と語彙セットが違いすぎてて経験値がなさすぎるのが原因ではないかと思う。

それはさておき、この本で書かれている、脅し・制裁・報酬・文化の普及などのあらゆる方法をもってして他人の行動を自分好みに変える、という考え方は、若干牽強付会気味ではあるけれども、実際の仕事にも役立つ可能性はあると思う。いい仕事をするためには、まず自分が何らかの信念を持ち、それを他人と共有してみんなで一緒の方向に進んでいくことが重要で、いかに他人をして自分と同じ考えをさせしむるかは、大きな仕事を成功させるために重要な要素ではないだろうか。

ちょっと面白いのは、経済的な力のところで、「資源があるのに越したことはないけど、それがあるがゆえに国内の資源配分が歪んでしまうこともある」「弱い国のほうが必死なので、交渉事は常に弱い国のほうがうまく運ぶ(本書では米国と比較した場合のカナダについて触れていたが、日本と北朝鮮を考えると理解しやすい)」と言ったところ。また、OPECを引き合いに出して、「需要もしくは供給を完全に独占できればそれも交渉力になるけど、ふつうはそんなの難しいから(例: OPEC 加盟国のカルテル破りやベネズエラインドネシアなど非加盟国の生産)、国際強調が必要」というのも納得。

RS Earphone #2 を買った

諸事情により、携帯電話の着信に、いつでもどこでもすぐに気付けるようにしたい…という要求が最近より強くなった。着信に気付かないシチュエーションとして一番多いのが雑踏を歩いているときなので、騒々しくても着信に気付けるようにしたい。バイブレーションは気付かないことが多いので、ここはやっぱり音を使うべきところだと考えた。メール・電話の着信を一度に確認できるデバイスとしては先日 MW1 を購入したので、あとはここにつなぐイヤホンを何にするか、という問題になる。

私がふだん使っているイヤホンは Ultimate Ears UE700r で、しかもこれに Compy のイヤーチップ をつけている。この組み合わせはとても遮音性が高く、地下鉄通勤でも外界の音を気にすることなく音楽や Podcast を聞くことができているが、逆に言えばこの組み合わせは遮音性が高すぎて、つけたまま歩くのはとても危ない。「雑踏で着信に気付く」という用途には、もっと外界の音がよく聞こえるイヤホンにする必要がある。

そういう用途に最適なものとして既に持っているのがバーチカル型のヘッドホン MDR-A35SL で、徒歩・ジョギング・ランニングをしていても外の音がよく聞こえる利点から、徒歩通勤時に愛用していた。ただ、いかにもジョギングしますよー的なオーバーヘッド型の外観があんまり普段の格好と合わない、という難点がある。

というわけで、今回は Amazon で評価の高かった RS Earphone #2 というのを買ってみた。

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さっそく自宅で台所仕事をしたり朝食を取りながら使ってみたところ、確かに外界音はよく聞こえる。また、耳に音がこもることもなくなるので、たとえば飲食したり歯磨きしたりしていても違和感がない。これはかなり使えそう。

唯一の問題は音漏れ。やはり構造上、多少外に漏れてしまうので、電車内のような、人同士の耳が近接しているシチュエーションで使うと、隣の人に迷惑がかかるかもしれない。UE700r のようなインイヤー型イヤホンがほとんど音漏れしないのとは対照的で、この2つは補間関係にあるなぁと思う。

ぶあつくて中身の詰まった、外はカリカリ、中はしっとりのホットケーキ

今日は午後から半休を取って(といっても2時半までは仕事してた)、東京・板橋区にある喫茶店ピノキオ」へ、ホットケーキを食べに出掛けた。

実はわたくし、マクドナルドではマックグリドルかホットケーキしか食べないくらいのホットケーキ好き。佐々木俊尚さんのツイートがきっかけで、さらにみちくさ学会の記事をみて、こりゃ行ってみよう~と思っていたところに、ちょうど妻がお休みを取っていたので、一緒に行ってみました。

自宅最寄り駅から東武東上線大山駅へ。検索してみたら、小田急線ではなく田園都市線のほうが早い、と出たので、座れて楽ちんな田園都市線へ。副都心線で池袋へ出て(地下鉄線内急行があることにびっくりした)、東武東上線の各駅停車で3駅の大山駅で下車。駅から降りた後が意外と長く、10分弱くらいで到着。熱に弱い妻がだいぶへたってしまった…。

お店に入ると、平日午後四時という時間帯ゆえか、お客さんは常連さんっぽい人がカウンターにひとりと、自分たちと同じく遠方から来たとおぼしき客の2人だけ。さっそくアイスコーヒーとホットケーキを注文。

みちくさ学会の記事の通り、マスターはお客さんとの会話を大切にしているようで、カウンターのお客さんとずーっとしゃべっている。氷にこだわっていて、わざわざ氷屋さんから買っているとか、マギー司郎さんが云々とかこまどり姉妹が云々とか、実に幅広くトークをしていた。

15分くらい待ったところで、まずアイスコーヒーが到着。これは不思議な味。たぶん水出しではなくドリップだけど、妙にトガリのない味。ネルドリップかもしれない。そして、確かに氷がきれい。7色に輝いていた(写真だと見えないかも…)。

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続いてホットケーキ到着。

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大きさは意外に大きくない。分厚さは写真から受けるイメージ通りで、かなーりぶあつい。このページによると、これで型を使ってないらしい。おどろき。ナイフを当てると、外はかりかり。口の中に入れるとしっとりしていて、この形と食感からすると、かなり生地が「濃い」、つまり、ふくらし粉がほとんど入っていないのでは? と思った。

というあんばいで、二人そろっておいしくいただきました。 (ひとつだけ頼んだら、何も言わずとも二人分の食器を出してもらえて、二人で分けられました)

アクセス

最寄り駅は東武東上線大山駅。が、上記の通り意外に歩く(徒歩10分弱)ので、「この暑い時期に歩くのはなー」という場合、池袋駅西口から国際興業バスの「池20」もしくは「池21」系統で「金井窪」下車すれば、西に2, 3分歩くだけで着きます。1時間6本(約10分ごと)の頻発運転なので、特に調べなくても来たバスに乗れば大丈夫でしょう。

地図は食べログ参照。

サンワの3D USBアダプタのデータ端子を短絡してスマホ用充電アダプタにした

こちらのページを参考にして、汎用USBケーブルでもISW16SHを充電するための変換アダプタを自作してみた。

このアダプタはドライバー1本で簡単にコネクタ部分を開けられるから改造にぴったりだ。かぱっと開けて、データ線をぶった切って、そのうちの1本の被覆を剥いて線を束ねてジャンパ線代わりにする。

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これを隣の端子に持っていって、ハンダを盛る。終わり。

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このあと汎用USBケーブルを使ってISW16SHを正常に充電できることを確認した。このアダプタがないと充電できないことも確認した。

2012年6月13日放送のクローズアップ現代を信じるべきかを考えるための考察

要約

この番組は、「薬は利益と害を天秤にかけて使うものである」という医療の基本から外れて、多様な薬を「向精神薬」という括りでまとめて悪者にしてたたくことで溜飲を下げており、しかもその根拠は無知な医師の思い込みだけである。また、たたいた後の改善提案は理論に基づかない単なる願望であり、問題解決に繋がる根拠がない。このような番組は、現在投薬治療を行っている人に対して無用な不安を与え、医療システムに不必要な負荷を与える有害なものである。また、ただでさえ敷居の高い精神科受診をためらわせることで、助かる命をも毀損しかねないものである。本文章では、番組を見た人が過度に薬を避けることがないよう、番組内容が薄弱であると判断するのに役立つ情報を列挙する。

番組の内容と主張

端的に言えば「子供への向精神薬投与が増えているので、なるべく減らすべきだ」という主張である(番組 web ページ)。

問題点の要約

  1. 出演した医師は経験ある精神科医ではない可能性が高いのに、あたかも精神科医であるかのように見せて誤った知識を権威付けして広めた
  2. 薬を使った医療を感情・願望で評価し、エビデンス(証拠)を無視している
  3. 向精神薬をすべてひとくくりにして語り、個別の事情を無視している
  4. 向精神薬を使った場合の害のみを強調し、向精神薬を使わなかった場合の害を無視している

出演した医師は経験ある精神科医ではない可能性が高い

まず最初に指摘しておくべき点として、「児童精神科医」という肩書きで登場した医師(以下「医師A」とよぶ)は経験ある精神科医ではない可能性が非常に高いという事実がある。この医師Aに関連して、ネット上で以下のような文章を見つけることができる(webページ、消えた場合はこちらの魚拓が同内容)。

私は、小児科に14年勤め、身体医学に限界を感じて精神科に移動した。精神医療の一部(30年前のごかいの活動なども含め様々な人間観)には多くを学んだ。けれど、神経学が専門だったので、精神科薬剤治療だけは、最初から認められなかった。そのため30年間、多くの医師に批判されながら、細々と恐る恐る、単一薬剤・少量投与を守ろうとしてきた。

これが同姓同名の別人である可能性と、医師Aをかたる偽物が書いた文章である可能性がないと仮定すると、医師Aは薬物治療の経験がほとんどないと言える。精神科で薬物治療の経験がない、というのは、まともな治療行為はしてきませんでした、と言うに等しく、精神科医と名乗るに値しない(もし薬物なしで統合失調症うつ病を治療できるならそれはすばらしい成果であり、テレビに出演せず論文を書けば一流誌に採録間違いなしだろう)。端的に言えば、彼の「薬は危ないのである」という主張の根拠は、薬を使ってみた経験に基づくものではなく、無知からくる思い込みである。何百・何千という患者と向き合ってきた本職の精神科医の投薬と、「私は投薬しません、なぜなら投薬は嫌いだからです」と言っている医師の意見のどちらを信用するべきなのか、各自でよく考える必要がある。私は本職の精神科医を信頼する。

もうひとつ指摘しておかなければならないのは、この文章が、ある別の医師(区別のために以下「医師B」とする)が書いた本の出版にあたって寄せた文章であり、医師Bは有名な「セカンドオピニオンの医師」であり、かつ医師Bこそが番組中に出てきた「セカンドオピニオンの医師」である、という点である。私はこの医師Bのセカンドオピニオンが適切だとは思えない。医師Bのセカンドオピニオンをどう評価するかは、医師Bの web サイトと、おそらくその医師Bのセカンドオピニオンを受けたであろう患者家族が別の精神科医の質問コーナーに寄せた質問及びその回答を見て、各自で考えるべき問題である。私は後者の文章により説得力があると判断した。

薬を使った医療を感情・願望で評価し、エビデンス(証拠)を無視している

医師Aが薬物治療の経験がない自称精神科医だとすれば、番組が問題のある内容になった理由は容易に説明することができる。まず、薬を使った医療を感情・願望で評価し、エビデンス(証拠)を無視していることの是非について検討する。ここでは、向精神薬の一種である抗精神病薬統合失調症の治療薬)を例として用いる。

昔、統合失調症(当時は精神分裂病)は不治の病だった。1952年にクロルプロマジン(製品名コントミン・ウィンタミン)が発見されて、多くの患者が救われるようになった。もちろん薬には副作用がある。コントミンのような古典的な抗精神病薬には手足のふるえなどが、ジプセキサやセロクエルのようなより新しい抗精神病薬には糖尿病を悪化させる副作用がよく知られている。よって投与する薬の種類や量が少ない方がよい、というのは当たり前の話で、議論する余地などない。

議論の余地があるのは、「どのような薬の種類や量なら、より少ない副作用でより大きな効果を得られるか」という点と、「カウンセリング・外科的処置など、薬以外のより副作用が少ない代替手段で、薬と同等以上の効果は得られるのか」という点だ。医師Aは代替手段として「子供とよく向き合う」という方法を提案しているが、比較対象である薬の効果について無知である以上、定量的比較を行わない単なる願望であり、非常に無責任である。責任ある医師ならきちんと効果を評価して論文としてまとめるか、まとめられた論文を読んで判断しているし、私たち一般市民は書籍(例えば福井2003)でその集大成を知ることができる。精神科領域では、「重篤抗うつ剤が著効しないうつ病患者に対するECT(電気けいれん)」「パーソナリティ障害に抗不安薬ではなく力動的精神療法(小羽2009)」といった代替手段が考えられる。

この「薬の利益・害を他の手段の利益・害と比較して、薬のほうが利益が大きいと判断できる場合には薬を使う」というのはとても重要な考え方である。なぜなら、「害があるから全部ダメ」という利益を無視した考え方は、薬の利益で救える人を見殺しにすることを意味するからだ。

よく考えてみると、この考え方は向精神薬に限らず、あらゆる医療措置に適用可能だと言える。例えば、手術しなくても問題がない(死なない・生活レベルが下がらない)のであれば、手術はしないほうがよい。なぜなら手術するという行為そのものが、感染症などの原因になり得るからである。リスクゼロを目指すなら、座して死を待つのみであり、それでよいと個人が思うのは個人の裁量であるが、テレビに出て他人に喧伝することは、救える命を失いかねない危険な行為だと考える。

十把一絡げ

向精神薬といっても多種多様であり、薬の種類によって気をつけるべき点が異なるが、医師Aには区別ができない。ゆえに、薬の利益・害を適切に判断できていない。

たとえば番組中に出てきたADHD(注意欠陥多動性障害)に処方されるコンサータ(というよりその成分である塩酸メチルフェニデート)が問題にされるのは、その構造が覚醒剤に酷似していて、耐性・依存性が強い点に理由がある。昔の睡眠導入剤は過量服用で呼吸停止する危険があったし、最近の抗不安薬や睡眠導入剤の多くには依存性がある。抗精神病薬は必要量だけ服用すると副作用が強く出るため、別の薬の併用が必要だったり、複数の薬を組み合わせる必要がある。古い抗うつ剤には便秘の副作用があるし、抗うつ剤全般の特徴として効果より先に副作用が出るため、精神科医でなければ、副作用を我慢して効果が十分出る量まで増量するのが難しい。ドグマチールという薬には「食欲が出過ぎて太る」という珍しい副作用がある。 (以上の薬物の添付文書はすべて独立行政法人医薬品医療機器総合機構の医薬品添付文書検索ページから取得できるが、副作用の頻度や深刻さは実際にたくさんの患者に対して処方している本職の精神科医にしかわからない)

といった具合に多彩な効果と副作用をもつ向精神薬を、十把一絡げにして、いい・悪いを議論するのは意味がない。議論したければ「うつ病に対する治療としてのパキシルは衝動性の点でよくないから、第一選択肢としてはデプロメールを○○mg から始めて、随時増量して○週間で××mg まで増量して、それでも効果が発現しなければ次は○×を使う」といったように、薬の種類・量を特定するべきだ。とてもつまらないし難しいが、医師の存在意義はこういう知見を日夜集め続けてより確実に効果が出る医療を提供することにある。それを放棄して薬全部を否定するなら、医師として、薬を全部放棄するほうが効果があったということを論文で発表すべきだと思う。

向精神薬を使った場合の害のみを強調し、向精神薬を使わなかった場合の害を無視している

番組の最後で医師は「精神障害では死なない」と言った。とてつもない誤りであり、この番組における最悪の発言である。うつ病が原因で自殺する人は年間6949人いる(厚生労働省資料、平成21年)…というだけで十分反証になるだろう。他にパーソナリティ障害で自傷・他害したり、統合失調症で人格崩壊する人の数を数えたらいったい何人の人生を破壊しているかわからない。医師Aはそういう患者を意図的に避けることで「精神障害では死なない」という状況に達し得たのだと思われる。医師としては楽だろうが、見放された患者の末路を考えると悲しい。経歴を見る限り小児科の経験があるので、おそらくここで多くの死に目を見て幾度も悲しい思いを抱いたのであろう事は容易に想像できて同情するが、だからといって薬で助かる命をドブに捨てる行為には賛同できない。

「ではどうすればいいのか」という考察がない

いみじくも石川氏は「この問題は原発問題と同じ」と発言した。この点については皮肉にも全く同感だ。薬とか放射性物質のようなたたきやすいものを何も考えずにたたくのは実に気楽なものだが、たたいたところで病気や問題行動がおさまったりエネルギー問題が解決するわけではない。

では、現状をどうすればいいのか。これも各自が考える問題であって、誰かの考えを盲信するようなことではないと思う。個人的には、精神科のような敷居の高い科に対して気軽にアクセスできるようになるのは利点が大きいし、患者のQOL向上に役立つなら、小児に投薬するのもやむを得ないと思う。例えば医師によってその態度に大きなばらつきがあるなら、例えば肝炎治療ガイドラインのように、一般人も参照できる形で、学会が何らかの基準をまとめてもよいのではないだろうか、と思う。

追記

web 上に別の考察があった。(2012-06-14 21:44)